| 不謹慎な恋 |
汚れも、裏切りも知らない。そして愛さえも、少女は知らなかった。 「たのむ…見逃してくれ」 目の前に立ち塞がった黒衣の少年に、男は少女の細く白い手を握る手に、知らずと力を込める。 「見逃せるはずがないだろう」 黒衣に煌く銀の十字架は、"神"に仕える者の証だ。 するりと細身の剣を抜き、少年は油断なく男と向き合った。その声は静かに灰色レンガの町に沈む。 「知っているだろう、世界を統べる"知恵のりんご"の予言を」 黒く塗られた刀身が、ぬるりと不気味に、わずかに光を反射して揺れる。 男は苦しそうに、疲労と焦りの見える顔を歪めた。 「…"神"の涙」 「そうだ。"神"が泣けば雨が降る。彼女は―"神"は、何かを愛してはいけないんだ。 空は重く曇っている。男に庇われて震える、少女の顔のように。 「もし彼女が何かを愛し、その何かの命が途切れたなら―初めて見る"死"に、彼女は泣く。 未来を見透かす"知恵のりんご"は予言した。 「知っている…そんな事は、知っている。だが、私は彼女を愛してしまった」 "神"の住まう区域へ繋がる、厳重に閉じられていたはずの天国への扉が、偶然開いていた。 異常なほど重なった"偶然"が、人々の終焉への抵抗を壊していく。 「彼女があんたを愛しているとは限らない。…まだ、間に合うかもしれない」 剣を構え、少年は男の生命に狙いを定める。 走り出した少年の前に、少年の黒い刃の前に。 少女の頬には、濡れる涙。さらさらと、霧のように細かい雨が降り始めた。 「…手遅れだったようだな」 少女の薄い胸の手前で停止していた剣を引き、少年はふっ、と短く笑った。 「見逃して、くれるのか…?」 黒衣を翻した少年に、少女と共にレンガの地面に座り込んだまま、男は尋ねた。 振り返りもせずに、少年が答えた。冷ややかに聞こえるその声に、わずかな温かみが見える。 「あんたを殺せば、"神"は泣くだろう。"神"を殺せばどうなるかは、"知恵のりんご"にも分からなかった。 「…あ、ありがとう…」 不安そうにしがみつく少女の細い肩を抱きしめ、救われたように、男は微かな笑みを浮かべた。 「礼など言うな。これからあんたは、彼女の涙を一人で止めなければならないんだ。 「"神"を愛した者の"宿命"だろう?分かっている。 霧雨の中、遠ざかっていく男と少女の背中を見送り、少年は剣の柄を弄んだ。 "神"と"男"の出会いは、"知恵のりんご"が予言していた。 レールの上を走るように、世界は予言どおりに進んでいるのだ。 体温をゆるゆると奪っていく雨を払って、少年は灰色のレンガの街に消えていった。 Fin. |
12作目囁ピエ、[不謹慎な恋]でした。
世界を滅ぼす危険性を孕んでいると知りながら、それでも貫く恋。
文中、"知恵"と書いて"ケルビム"となっていますが、微妙に嘘です。
ケルビムはヘブライ語で知識、仲裁する者。智天使ですね。
2003年11月