SEPIA
懐かしい声が聞こえた。
人気絶頂の時に、コンサート会場で起きたテロに巻き込まれ、舞台上で命を落とした、悲劇の歌姫。
彼女の伸びやかな歌声は、16年の歳月が流れた今でも、色褪せずに残っている。
CDにも、そして彼の脳にも。
コンサートに遅れた事は無かった。
さすがに遠征先にまで出かけることは出来なかったが、クラウン地区で開かれるコンサートには
必ず駆けつけ、開始5分前には指定席の柔らかなシートに身を埋めていた。
たまたまだった。
仕事が長引き、初めて彼女のコンサート開始時間に間に合わなかった。
どうせ遅れたのだからと、珍しく寄り道をする気になった。
公演に遅れたお詫びも兼ねて、フラワーショップで買った、彼女と娘の好きな花―カスミソウの、
慎ましやかな花束。
買ってしまってから気付いた。
花束を贈るのは、結婚前に彼女の家を訪ねた頃以来。
いったい、どんな顔をして渡そうか。いったい、どんな顔をして渡していたんだっけ。
彼女はどんな顔をするだろう。
喜んでくれるだろうか。それとも、家の中を埋め尽くす花を増やすなんて、と苦笑するだろうか。
娘はきっと喜ぶだろう。家の中がお花畑みたい、と、コンサートのたびに大はしゃぎするのだから。
そんな幸せな予想に気をとられていたから、会場への道を曲がるまで、気付かなかった。
いつにも増した喧騒と、救急車やパトカー、消防車のけたたましいサイレン。
彼が幸運だったのか不運だったのか、誰にも分からなかった。
たまたま会場に遅れた彼は生きていたが、彼の最愛の妻と娘は、永遠に失われたのだ。
彼が犯人では、と騒ぎ立てる者もいたが、長くは続かなかった。
彼の落胆ぶりは、彼を知るもの、知らぬもの、どちらの目にも明らかすぎた。
「私達のどちらかに不幸な事件が訪れても、残されたほうは、私達の子を守って生きましょうね」
その子も失われた今、私はどうすればいい?
「そして、幸せでいましょう。新たなパートナーを見つけて、幸せに生きるの」
貴女のいない世界で、どうやって幸せに過ごせばいい?貴女以上のパートナーなんて…きっといない。
「後を追うのだけは、禁止しましょうね。私は貴方に生きて欲しいし、貴方もそうでしょう?」
あの頃の不幸と絶望は、時に晒されて薄れた。
新たなパートナーを見つけて幸せになる、という課題は果たせていないし、果たす気もないが…
それくらいの我侭は許してくれるだろう。
貴方と出会い、娘が産まれた。幸せに過ごした日々、温かな思い出。
それが胸に刻み込まれているという真実だけで、私はこんなにも幸せなのだから。
Fin.
20作目囁ピエ、[SEPIA]。
長編"PRIVATE ENEMY"の2作目の短編となりました。
人物名抜きなので非常に分かりづらいですが、メルの話。
しっとりした話を考えるのは好きです。ただし山場がない。
2005年1月