Walts


 静かに、なぜだろう。その音は、痛いほどに淋しい。

 誰もいないその部屋で、ヴァイオリンはひとり、音楽を(かな)で続ける。

 朽ちかけた廃屋の西南、やわらかな西日が差し込む部屋。

 割れた窓ガラスから吹き込む金木犀(きんもくせい)の秋風が、破れた楽譜をはらはらとめくった。

 楽器や楽譜、書きかけの手紙、万年筆。

 人の存在感がひたりと染み付いた、しかし埃の厚く積もった、孤独な世界。


 「なぜきみは歌い続けるの?」

 褐色に焼けた楽譜(スコア)が、風に舞いながらヴァイオリンに話しかける。

 「人間が怖がっているよ。薄幸の資産家令嬢のおばけだとか、呪いの屋敷だとか言ってるよ」


 ヴァイオリンはそっと弦の震えを止めた。

 長い年月がゆるめた弦の張りは、音をゆるやかに歪ませていく。


 「…私を美しく奏でてくれた指を―呼吸を、忘れられないの」

 風が体の中を通り抜けていく、微かな音。

 ヴァイオリンは知っていた。曲のないその音は、今の己が独り奏でるワルツより、ずっと美しい。


 「風が奏でてくれれば、それでいいじゃない。きみは今も、充分綺麗だよ」

 ヴァイオリンの心中を察したかのように、セピア色のスコアが慰めた。

 再びヴァイオリンが、独りでワルツを奏で始める。踊るものは、風ばかり。

 沈みかけた太陽に照らされて、部屋の中は優しい金色。


 だが、朽ちた屋敷から聞こえる音狂いのワルツは、人間にとっては不気味でならないのだろう。

 勇気と好奇心と無謀さに満ちた子供が、この部屋を覗いて逃げていく姿を、ヴァイオリンもスコアも何度も見ていた。

 そう、彼らに言わせれば、ここは幽霊屋敷。


 「忘れられないのよ」

 独り奏でるワルツに引き寄せられた人間が、また自分を美しく奏でてくれる。

 音狂いのワルツに乗せて、そんな夢を、ヴァイオリンは静かに祈り続ける。

 ふと自嘲気味に、ヴァイオリンはか細い息を吐いた。

 「でも、それももうお(しま)いね」

 ちろちろと見える、紅いもの。夕日のそれとは違い、ひらひらと舞い踊る、紅い、熱いもの。

 この身を黒い灰に変えてしまうもの。


 けれど、誰もが怯える奇妙なワルツで、それでも炎は美しく踊ってくれる。

 「さぁ、踊って。最期まで奏で続けるわ、私のラスト・ワルツを」


Fin.


16作目[Walts]。
ワルツ=三拍子の舞踏曲(円舞曲)だそうです。

自己完結型幸福のアンハッピーエンド、大好きです。
周囲から見れば不幸でも、当人にとっては幸福。いい。

2004年2月

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