AIR-アイル-
scene0-遠い記憶
「君…誰?」
「名前?さぁ…覚えてないな」
「じゃあ、ポチ」
「犬?」
「ううん、猫」
scene1-邂逅
桜のつぼみは膨らみ、日差しは日に日に暖かく、しかし風はまだ少し冷たい。
浮き足立ったような春の気配に、けれど「僕」の心は重くなる。
コンクリート詰めの学校から、コンクリートで固められた海沿いの帰路をうつむいて歩く。
小さい頃も、下を見て歩いた。自分だけの宝物を拾い逃さぬように、目を凝らして。
あの頃より大きくなったこの手は、重い学生鞄を持つので精一杯。もう何も拾えない。
ふと上げた視線に、ふいに見慣れない人影が飛び込んだ。
近所の剣道場の入り口、低い石垣の上。
昔の書生さんのような服を着た少年が、遠く空と海を見て微笑っている。
「君…そこの剣術道場の子?…あ、ごめん、急に…」
取り付かれたように訊いて、我に返った。発した言葉はもう戻らない。
少年は、ただ笑っていた。穏やかな潮風に、黒い髪をなびかせて。
発した言葉は戻らない。だから、もう一度訊いた。訊くことにした。
「君…誰?」
「名前?名前か…何て呼ばれてたっけかな」
どうでもよさそうに答えて、少年はまだ微笑っている。
ムッときて、僕は言った。
「じゃあ、ポチ」
「犬?」
「いいや、猫だよ」
ポケットに隠した、ビニールに包まれた、青いあめ玉。作られたソーダ味。
僕はひとつ、それをあげた。