◆第二章/春の夜、幸せな夢の如く◆ scene4
窓も扉もない、真っ白な部屋。
人生の大半を過ごしてきたこの部屋が、ラスティアにはもう、懐かしいとは思えなかった。
眩しい空と日の光。ネオンに彩られた街の夜景。肌を撫でる風。雑踏。温かな人々。懐かしいひと。
”世界”が鮮やかな色を取り戻した今、恋しいものは、この部屋には何一つない。
『懲りましたか?ラスティア』
白い天井の隅に埋め込まれたスピーカーから、聞き慣れた楽しげな声が響く。
答える気力も湧かずに、ラスティアはうなだれたまま、無言で乱れた服と髪を整えた。
『返事が聞こえませんねぇ。反省していないのであれば、さらに相応の罰を与えることになりますが』
「…もう逃げ出したりしないって、言ったはずだけど」
口の中に広がる血の臭いと、執拗な"仕置き"のために掠れ、涙の混じった自分の声に、
ラスティアは僅かに眉をひそめた。
全身が、特に何度も叩かれて熱を持った左頬が、じんじんと鈍い痛みを訴えている。
アリア、ロンド、ラプソディ、ノクターン、ララバイ。
クウリオスの操る五体のアンドロイドの設計には、ラスティアも携わった。
アンドロイドの使用目的は知らされていなかったが、ラスティアは戯れに設計図にリミッターを組み込んだ。
彼らは対峙した人間の生命反応を感知し、命に関わるほどの危害は加えられないようになっている。
リミッターはアンドロイドの脳とも言える部分に精密に組み込んである。
取り除くくらいなら、新たなアンドロイドを造るほうが簡単だ。
設計の段階で、それにクウリオスが気付いていたか否かは定かではない。
どちらにせよ、クウリオスは新たなアンドロイドを造るでもなく、アリアらを使い続けている。
あるいは、自分の気に食わない、しかし死に至らしめるつもりはない相手を”仕置き”する為なのかもしれない。
先刻まで、アンドロイドの生半可だが執拗な攻撃に、ラスティアが嬲られていたように。
気だるさに手の甲を額に当ててみても、同じように熱を持った手では、とても測れそうにない。
気分の悪さを吐き出すように、ラスティアは大きく息をついた。
スピーカーはまだ、クウリオスと繋がっている。
「まだ、何か用?休みたいんだけど」
『…まぁ、いいでしょう。必要な医療薬品類を送ります、傷の処置は自分で出来ますね』
「解熱剤と氷嚢も送ってもらえるかな」
『そうですねぇ。反省の色があまり見えませんし、罰として我慢してもらいましょうか』
「心狭い…」
『あなたは本当に懲りませんねぇ、お兄さんにそっくりだ。おやすみラスティア、良い夢を』
ふつりとスピーカーの切れる音がして、部屋の隅の小さなエレベーターのドアが開いた。
軽食と救急箱、それに真新しいノートパソコン。
乗せられていた全ての物を取り出すと、重みの変化に反応し、ドアはゆっくりと閉じた。
「逃げるなって言っておいて、すぐに僕にパソコン与えるって…」
クウリオスの元から逃れられのも、”優しくなったマスター”の力添えがあったとはいえ、
結局は与えられたパソコンがあったからこそ為し得た行動だった。
外までの経路の確保、追手の足止め、この部屋からの脱出。全てにパソコンを利用した。
マスターのメインコンピュータをハックして建物の管理プログラムを弄り、撹乱の為にウイルスを残し、
数日間とはいえ、完全に逃げおおせることが出来たのは―全て。
再びラスティアが逃げ出すことを、おそらくクウリオスは期待している。
直接対峙した時間は短いが、ラスティアの目にも、クウリオスは人が足掻く姿を楽しんでいるように見えた。
耳に蘇るのは、スピーカーから流れる、常に笑みを―嘲笑するような音を含んだ声。
傷の手当てを済ませて、ラスティアはずるずると白い床に体を横たえた。
熱っぽい体には床の冷たさが心地良いけれど、後で症状が悪化するのは体感で知っている。
目の端に映るベッドが、ひどく遠い。
「…セシル…」
懐かしい兄の名を小さく口にして、ラスティアは目を閉じた。
頭にこびり付いて離れない、別れ際の兄の言葉。息苦しいほどの胸騒ぎに眩暈がする。
『ラス、待ってろ…必ず、迎えに行くから』