◆第二章/春の夜、幸せな夢の如く◆ scene2


仮眠室へと続く無人の廊下を小走りに進みながら、セシルは内心で首を傾げた。

外を見回るリーパーの半数にも満たないが、ギルド内で警戒に当たる者も居たはずだ。
たしか、各部屋の廊下に最低一人は配置されていた。

このギルドには今、セシルよりも経験の浅いリーパーは居ない。
電気が落ちた事に当然警戒はしただろう、けれど勝手に持ち場を離れるとは思えない。

この視界。建物内のリーパーは、突然の闇に警戒を高めれば、なおさら動かない。
停電。予備電源も入らなかった。

相手はクウリオスだ、侵入を防ぐ事より、侵入された時の事を考えるべきだった。
―侵入された?

ぞくりと背中を走る悪寒に、廊下に響く己の足音にようやく気付いた。
立ち止まり、息を吐いて、足音を抑えて歩き出す。

客室と医務室を通り過ぎて、弟たちが居る仮眠室の前で足を止めた。
計ったようなタイミングで点いた明かりを見上げて、セシルは耳を澄ませた。
蛍光灯の音の他には、雨音さえ聞こえない。
停電はただの配電盤の異常で、実は何事も起きてはいないのか。

不必要になった懐中電灯を床に置いて、ゆっくりとドアノブを回す。
鍵は…かかっていない。

「セシルくん、ですか?それとも、アイシアくんかな?」

室内から掛けられた声に、頭より体が反応した。
乱暴に開かれたドアが、壁に叩きつけられる音。

「セシルくんでしたか。アイシアくんは…ああ、そうでした」

だくん、と己の心臓が嫌な音を立てたのを、セシルは聞いた。
全てのリーパーの敵とされる者、多くの仲間、そして両親の仇。
その足元の血溜まりに、兄であり師であり、命の恩人とも言える人が倒れている。

「アイシアくんは、私の可愛いアリアとロンドが片付けてくれたんでしたね」
「クウリオス…!」

吐き気がしそうなくらいに、頭の芯が冷たい。

この音を聞いたら、冷静になる事を思い出せ。
言葉と共にアイスから贈られた首輪の鎖が、戒めるように小さく鳴ったが―聞こえない。

「おやおや、そんな怖い顔をして…可愛い顔が台無しですよ?本当に、キミたち兄弟ときたら…
 私に逆らうなんて無駄だというのに、なぜ理解できないんでしょうねぇ。ねぇ、ラスティア?」

クウリオスの背後に控えていた、二人の黒いコートの片方が、一歩踏み出した。
奇妙に伸びたその腕が、ラスティアの体に幾重にも巻き付き、拘束している。

苦しげに顔を歪ませて、ラスティアがクウリオスへと声を絞り出した。

「貴方が"マスター"なんだね…?貴方の元に戻る、どんな罰でも受ける。二度と逃げない。
 だから、アイシアさんにもセシルにも…誰にも手を出さないで」

ラス。
呼びかけようとした声が、出ない。
まとわりつく血の香が、視界に倒れる姿が、セシルの思考を奪っていく。

「まぁ、初めての事ですし…今回は特別に許してあげましょう。お兄さんに別れの挨拶は?
 今生の別れでしょうから、五分だけ時間をあげましょう。アリア、放してやりなさい」

クウリオスが笑んだ。冷たい瞳が、唇が、楽しげに歪む。

「ラスティア。貴方がこの四日間に出合った全ての人間を殺す事も、私には出来るんです。
 おかしな真似はくれぐれも慎むように。…もちろん、セシルくんも、ね」

あごで足元のアイスを指して、クウリオスはセシルと視線を合わせて微笑んだ。
アリアと呼ばれた黒コートと、それに良く似た姿のもう1人が、ゆっくりと下がる。
自らも数歩下がったクウリオスの視線が、ラスティアへと向いた。

セシルが彼と邂逅したのは数度、セシルの知る彼の人物像は、リーパー間に伝わるそれと変わりない。
恐怖を抱いてはいない。抱けるほど知ってはいない。
それなのに、セシルの胸を占める感情に、希望と呼ばれる類のものは浮かんでこない。

アリアの腕から解放されたラスティアは、苦い表情を浮かべたまま、
床の血溜まりに倒れるアイスに駆け寄って膝をついた。
アイスの首筋に触れ、次に血に濡れた髪をそっと分けて、そして安堵の混じった息を吐いた。

「血は止まってるし、傷も…これなら、縫わなくても綺麗に治る。
 頭だから出血量は多いけど、輸血は必要ないと思う。命に別状は無いよ、大丈夫」

白い部屋で与えられたという、数々の知識。
ラスティアが口にした分野のひとつに、たしかに医学もあった気がする。
それを思い出しながら、セシルは戸惑っていた。
何に対して戸惑いを覚えているのかは、セシル自身にも分からなかった。

ラスティアが顔を上げる。

「後で、メルさんにちゃんと診てもらってね。
 …ごめんね、セシル。僕が来なければ、こんな事には…」

伏せられた瞳に、セシルはゆっくりとラスティアに近付いた。
そっと触れた弟の髪に、とうに忘れていたその感触を思い出した。

「ラス。ここに、居たいんだろう?」

ただ頷けば、僅かにでも頷けば、彼とアイスを守り抜くつもりだった。
三対一、守るもの、狭い部屋。不利は尽きないが、それでも。

けれど、ラスティアは首を横に振った。
力なく上げられた青い瞳には、涙が溜まっている。

「ごめん…ごめんなさい…」
「ラス」

変わらない。ぼんやりとセシルは思った。
両親がいて、自分たちがいた、幸せだったあの頃と、ラスティアは何も変わってはいない。
ずっと捜していた、大切な弟。

「ありがとう、ごめんね…」
「ラス!」

伸ばしたセシルの腕が、離れたかったラスティアの腕を捕らえた。
熱が出ているのか、抱き締めた体は不自然に温かい。

セシルが小さく耳打ちした言葉に、ラスティアは僅かに首を横に振った。
零れた涙が、床にぱたぱたと落ちる。

「…時間ですよ、ラスティア。セシルくん、縁があれば、またいつかお会いしましょう」

ゆっくりと離れる弟の腕を、今度は引き止められなかった。



モドル ススム

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